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    ◆普遍性(3)−面白い台詞

    • 2018.03.14 Wednesday
    • 05:21

     

    JUGEMテーマ:日本映画の監督

     

     

    面白い台詞 【参考文献】



       津映画の台詞を聴いていると、初めのうちは戸惑いもしますが慣れてくると、その映像と同じくとても面白い。それは台詞も映像のように写実を棄てて普遍化しているからです。まず気がつくのは最後まで語尾を濁さずしゃべる。全体の輪郭もはっきりしている。アクセントは誇張する。心地よい一定のテンポとリズム(この一定のというのが曲者で、慣れない人の耳にはそう聞こえても、実際は適当に変化します)。テンポは文字通り速さ。リズムの方は例えば音楽でタッカタン、タッカタンと鳴るそのリズムが一定ということ。

     

    そして一貫した語尾の崩し―「会社へ行きゃ」を「会社ィ行きゃァ」と表現する等々(中村伸郎談)、特定の言いまわし―「お茶漬の味」「そうなるんだ、あとで後悔するんだ、わかってるんだ」(1:54:29 鶴田浩二)、「早春」「いい話なんだ、面白れえんだ」(07:44 池部良)、(同上)「そうはいかねえんだ、心配事あんだ」……「人には言えねえんだ」(2:01:23 高橋貞二)等。


    これらにより同じ台詞を他の役者がしゃべっても同じように感じられます。小津はこの台詞を先に自分で示していたとのこと。「まず本読みに行きましたら、全部ご自分でセリフをおっしゃって、声の高さからセンテンスから全部決められる」(Р田茉莉子談)


    フランス語は鼻に掛かったような甘ったるい語感が特徴的ですが、フランス映画の台詞の中には逆にとんがったものもあります。例えば「天井桟敷の人々」の悪漢ラスネールや「オルフェ」の主人公。これらは性格描写か、あるいは方言から来るものか、それ以外のものなのか判然としないのですが、小津映画の台詞に対する外人の解釈も、せいぜいこんなところでしょう。それは感情のこもっていない棒読み。実際、オマージュものは大概そんな風にしゃべっています(日本のものでも!)。小津の「自分の映画は外国人には理解できない」という主張(◆屬早よう」海を渡る)は少なくとも台詞については言えることです。


       津が「いはでものこと」(ぞ津自身による発言・文章)で取り上げている谷崎潤一郎「文章読本」の中で、台詞について特に関わりがあると思われるものに、終章「三 文章の要素」最後の二項、「品格について」と「含蓄について」があり、これらの全てが小津映画で実践されています。彼は初トーキー「一人息子」の前年にこれを読んでいました。

     

     

       ○ 品格について

     

     一 饒舌を慎むこと

      イ あまりはっきりさせようとせぬこと

      ロ 意味のつながりに間隙を置くこと

     

     二 言葉使いを粗略にせぬこと

      いやしくも或る言葉を使う以上は、それを丁寧な、正式な形で使うべきであります。

      真に嗜みのある東京人は、日常の会話でも、割合正確に、明瞭に物を云います。

      下町の町人や職人などがぞんざいな物云いをする時でさえ、「おらあ」(己は)とか、

      「わッしゃあ」(わッしは)とか、「なにょー」( 何を)とか云う風に、ちゃんと口

       の内でテニヲハを云っている。

     

     三 敬語や尊称を疎かにせぬこと

      敬語の動詞助動詞は、美しい日本文を組み立てる要素の一つとなっております。

     

     

       ○ 含蓄について

     

     この読本は始めから終りまで、ほとんど含蓄の一事を説いているのだと申してもよいのであります。

     ほんとうに藝の上手な俳優は、喜怒哀楽の感情を現わしますのに、あまり大袈裟な所作や表情をしないものであります。

     


       語家の立川志らくは、小津映画について「どうってこともなく繰り出されるそれらのフレーズの、なんともいえず心地よいこと」と言っています(欧泙襪婆梢余さんのように―名人のフレーズ)。台詞に限らず演出全般に渡って、ついには「小津映画は落語だ」とまで主張します。


    単純に考えて小津映画で落語に似ているのは「お早よう」でしょうか。とぼけていて長屋の熊さん、八っつぁんのようなおばさんたち。あとは一連の喜八もの(これは喜八という人物が登場する「出来ごころ」「浮草物語」「東京の宿」「長屋紳士録」のこと)。ただし「東京の宿」の前半のだらだら感は外れます。ネタとしてはサイレント「生れてはみたけれど」「シマウマは白い処に黒い縞があるのか、黒い処に白い縞があるのか」(59:34)、「出来ごころ」「海の水は何故しょっぱいか知ってるかい」(1:25:15)。


       ぐに思いつくのはこれくらいですが、小津の細かい演技指導などは、落語での時には扇子を使って行われる演技に似ているかも知れません。笠智衆は小津の演出について次のように言っています(β萋鷯蓮仝世錣譴襪ままに)。



    「メシを食ったり、酒を飲んだりしながら台詞を言わなきゃいかん。その時の小津演出は、箸の上げ下げからオチョコの置き方、ご飯をゴクンと飲み込む喉の動かし方まで、それこそ一から十まで決めていく」

    「父ありき」食事の時、息子に自分が東京に出るので別れて暮らすことになるという話をする前に、箸を見て目線を橋の柄からさきの部分に移動し、それから話し始める。箸を見て「1、2、3」で話し出す(27:18)

    「落第はしたけれど」質入れで得た一円札をジーッとみる。初めに片方の端を見て、それからもう片方の端に目線を移し、その後顔を上げる(55:29)



    「秋刀魚の味」路子役の岩下志麻は、三浦(吉田輝雄)に振られた後の演技について述べています。「その悲しみを出すためにね、ミシンの傍へ行って、巻き尺を右に三回、左に二回、巻き戻してバラッと下ろして、それからまた右に三回で、一つ唾をのんで……セリフ何もないんですけど……ボヤッとして下さいっていうんですけど」(1:30:23 Т箍嫉嵋稈漫


       津映画と落語の一番の類似点は、おそらく志らくの指摘する「フレーズの面白さ」、台詞は説明するものではなく聴かせるものだということ。ただ聴いているだけで面白い。それから人物に対しての真正面からの切り返しショット。しかし「秋日和」以後の小津のカラー作品は、人物の顔も正面を向いてやり過ぎのようで、それらは何度見ても違和感があります(後に書く「◆小津の文法(1)−会話」参照)。もし落語でこれをやるとなると、演者も背景も変らないので熊さんと八っつぁんの区別がつきません。小津の人物が同じ方を向く視線を越えての切り返しは面白いのですが、こればかりやっていると、やはり単調なので効果のある処で控え目にやっています。しかし、これも落語らしくはありません。


       らに志らくによると、師匠の談志が唱えていた落語の「業の肯定」の世界観が小津映画にはあるとのこと。

     


    「努力すれば報われるというのは理想であって、努力したってダメなものはダメなんだ、……人間ってのはもともとそういうものなんだから、いいとか悪いとかじゃなくて、まるごと認めちゃおう」(殴ぅ澆呂△蠅泙擦鵝従津的ニューシネマ)

     


    これは漱石の唱える矛盾に通じます。漱石は落語の愛好家であり、「二百十日」など自身の作にも落語があります。小津もよく落語を聞いていたようで、例えば日記には昭和30年 4月28日「白木屋の落語の会にゆく 小さん 三木助 馬生 柳橋をきく」とあります。


       た漱石の「三四郎」には落語評があり、彼の時代の三代目柳家小さんについて「小さんのやる太鼓持は、小さんを離れた太鼓持だからおもしろい」と悪友の与次郎に言わせていますが、これは小津の「感情が出せても、人間が出なければいけない」に相当します。志らくは小津と五代目柳家小さん(ややこしいですが、芸風が同じ演者が襲名するのでしょうか)の共通点として「抑えの芸」があると述べています。これらは何れも演者の個性をなくして普遍化していると言えます。


       して志らくはフレーズの面白さによって、小津映画は落語と同じように何度も繰り返し見たくなると言います。それはストーリーではなくフレーズを楽しんでいるということですが、逆にストーリーが分っているから楽しめるとも言えるでしょう。例えばクラシック音楽のサンプルCDなどは、これだけ聴いても決して面白くはありません。つまり面白いフレーズというのは前後のつながりを楽しんでいるのです。さらに鑑賞後の余韻も作品に馴染んでいるほど味わい深いものです。


    芥川龍之介「愛読書の印象」には、「ジヤン・クリストフ」を再読しても昔ほどの面白味はなく、これは年齢のせいかと思ったが、同時期に読んでいたものでも「アンナ・カレーニナ」は二三章読んで昔のように有難い気がしたとあります。これら繰り返し楽しめるものは、やはりそこに普遍性があるからなのです。

     

    【参考文献】

     

     (本文ここまで)




     

     

     

    ◆普遍性(2)−懐かしい風景

    • 2018.03.11 Sunday
    • 08:42

     

    JUGEMテーマ:日本映画の監督

     

     

    懐かしい風景 【参考文献】



    作家の保坂和志は、小津映画に出て来る風景や人物、時には野良犬などを見ると、これらもかつては存在していたのだと感慨にふけるとのこと(㉑私の濃度―小津安二郎が読んだ小説)。その理由について彼は役者を例にとり、その演じる役柄、母親ならその母親が「本当にいたから」だというのですが、小津映画には本当にいたと思わせるような、他にはない何かがあるのです。そして懐かしいと思えるのは、それらの映像がみな、その何かによって普遍化されているからでしょう。


    まず人物について考えてみます。ここより前に保坂は小津映画の主な特徴としてローアングル、ワンカットが短い、会話している人を真正面から写す、ほとんど唐突に挿入される風景、カメラ固定の五つを挙げています。人物の普遍化は、この中の会話をしている人を真正面から写すことが理由の一つになるでしょう。


    これはサイレント時代の演出(次に字幕に出てくる台詞の話者を明示するために、正面からクローズアップで映す)のなごりとの指摘もありますが(小津自身が言っていたはず)、仮にそうだとしても、なぜトーキーになっても使い続けたのか。それは小津にとっては、「感情が出せても、人間が出なければいけない」(∪格と表情)として、それを実現させる演出だったからです。


    真正面からのアップを見せられると、観客はよそ見ができなくなり、その人物にくぎ付けにさせられてしまいます。とくに小津のカメラは必要以上に寄らずに肩までは映しますが、これは重要です。その人物の性格が表されることにより感情もみえてきて、仕舞いには悪い奴にも好感が持てるようになります。


    普通の映画は人物を真正面から捉えると違和感があるので、二人だけの会話を、あたかもその脇で聞いている者がいるかのように撮ります。そのため観客はその人に成り代って会話を見ることになるわけです。今、左の人が話しています、次に右の人が話し始めました、と話者が変る毎にカメラの向きを切り返していきます。一般にはこれを映画の文法とみなして絶対視していますが、こんな場面ならわざわざ映画館に足を運ばなくても、三人集まって二人が会話をすれば見られます。映画ならもっと面白いものを観せるべきです。


    また文法に従っても、アップは表情を強調するための手段なので、普段は適当に引いて撮ることになり、会話の全体を見せるショットが多くなります。すると観る側は遠くなった人物の、互いに向き合って行われる二人だけの会話に集中できなくなり(実際、仲間外れにされているような感じです)、どうでもいいような背景の方に注意が向いて、話の内容も残らなくなってしまいます。こうして人物の普遍化など思いもよらない映像となるのです。作者は初めから思ってもみないでしょうが。


    さらに登場人物の個性を表すために、台詞や演技でしっかり説明します。例えばヒロインの愛らしさを表すには、とっても可愛いしぐさをさせる。これが一般的な観せる演出ですが、そんなことよりも正面からアップで見せられる方がよっぽど愛らしい。それだけで充分です。「彼岸花」鑑賞後の志賀直哉を交えた座談会で、志賀は桑野みゆきについて「一番若いの、かわいい顔してるね」と言い(◆嵌犂濂屐廚鮓譴襦法△修譴魯▲奪廚任海修覆い場違いなほど可愛い(12:46)。


    余談ですが、小津は志賀直哉の好みに合わせて「秋日和」で再び桑野を使って、さらにこの作品では志賀が、再婚できずに笑いのネタにまでされた北龍二が可哀そうだ(◆崕日和」を語る)と言ったのを受けて、「秋刀魚の味」では北に若い新妻を持たせて幸せにしています。


    次に野良犬の普遍化はどうか。すぐ思い浮かんだのは、出て来る犬はおよそ何か芸をするということ。「東京暮色」の犬は(首輪をしてるかも知れませんが)自分の縄張りに片足を上げて印を付けたり、民家の玄関の奥に姿を隠してまた現れたりします(2:05:50)。小津は野良犬のショットをいくつか撮って、一番面白いと思えるものを使ったのでしょう。


    面白いというのは、昔ならよく見かけた野良犬のいる風景。たびたび指摘されるように、人物でも場合によっては何十回もテストや撮り直しをして一番良いものを使ったのだから(淡島千景、桜むつ子、その他多数)、芝居をしていない物の動きも良いものが撮れるまで繰り返したはずです。


    保坂が例に挙げた「朗らかに歩め」での野良犬のいる風景は三つあり、初めは俯瞰で狭い通路の突き当りの道をモガとすれ違うだけですが、たった一秒間で通行犬の役を果しています(45:05)。次の犬はショットが換ったところで突然現れて不自然ではありますが、右端奥に伸びる歩道をとぼとぼ歩いて行く後ろ姿は、野良犬の風情が良く出ています(1:08:40)。保坂の指摘したのはこの犬のことでしょう。そして背後の車(クラシック・カー)が走り出したためか、ショットの終りにちょっと左を振り向きます。


    三つめの犬は登場時間は二秒ほどで、仙公の背後を右に通り過ぎるのですが、ここも偶然ではなく、やはり面白いと思える動きを選んだのでしょう(1:13:24)。その犬は地面に鼻を付けながら現れて、頭が画面から外れる寸前に前を向きます。


    最後に風景の普遍化、それは構図です。動きがないので他に選択肢はないと思われます。そして構図の要はロー・ポジション。保坂の小津映画の特徴として指摘する、ほとんど唐突に挿入される風景だけでなく、登場人物がそれを見ている場合でもその人物は映されず、さらにカメラの視点を揃えることによって、これらの風景は人が見ていようといまいと全て同じように見えます。それは本当らしさを棄てて構図にこだわったからです。


    「秋日和」母娘の伊香保旅行でのゆで小豆の場面では、最後に二人は窓の外に視線を向けますが、その後のショットは榛名富士と湖だけが映ります(2:00:04)。この風景は母と娘のどちらが見ているのか。それはどちらでもない、あるいはどちらでも構わない。監督は一番いい構図を選んだのです。それはこの場面の初めに映る風景(1:58:27)と同じだったことで分ります。後の方では湖をモーターボートが通過しますが、この音で二人は振り向いたのでしょう。しかしBGM「紅葉」にかき消されるように、それはほとんど聞こえない。ここでも説明は何もありません。


    以上をまとめると、小津映画の「普遍性」は三階層の構造になります。基本は構図。これは総てのショットに当てはまります。次に絶好のショット。こちらは不規則に動くもので人間や動物、時には天高く昇っていく風船(「麦秋」58:28 これを何度も撮ったかは疑問ですが、やはり小津の映像は面白い。この風船は画面中央の上方からゆっくり蛇行しながら右上に進み、ショットが代ってから再び映されると、小さくなって下の方からほぼ真上に同じように昇って行きます)。さらに台詞も時間的な要因を含むものとして、ここに入るでしょう。最後は正面からのアップ。これは人物だけです。

     

     

    普遍性の要素:

     

     
    1. 構図(要はロー・ポジション)―人物、不規則に動くもの、風景
    2. 絶好のショット(台詞を含む)―人物、不規則に動くもの
    3. 正面からのクローズアップ  ―人物

     


    トリュフォーは映画の中で観客が同一化できるのは、一番多く眼差しを交わした人物であると述べていますが(小津作品のスタイル―正面からの人物撮影について)、たとえ視線を交わさなくても、その顔や声を多く見聞きすれば起こり得るでしょう。それは佐藤がここで指摘する「大人は判ってくれない」やヒーローもののような場合で、観客が主人公に対して主観的になるからです。またお涙頂戴ものになると、彼らは脇役の一人になって第三者として観ています。第三者といっても客観的ではなく、脇役として主観的になっているのです。

     

     これらに対して小津映画の場合は、会話の相手に成り代って観ていくことにより、総ての人物に対して対等になれるのです。そして会話の相手になれるのは、そこに普遍性があるからです。

     

    【参考文献】

     

     (本文ここまで)




     

     

     

    ◆普遍性(1)−面白い風景

    • 2018.03.09 Friday
    • 05:05

     

    JUGEMテーマ:日本映画の監督

     

     

    面白い風景 【参考文献】



    「秋刀魚の味」の風景

       津映画には主に電車、古いものでは蒸気機関車や路面電車、クラシック・カーなど、乗り物が印象に残るショットとしてたびたび登場します。そうでない作品を挙げるのが難しいほどです。例えば遺作といわれる「秋刀魚の味」(この「秋刀魚の味」が小津安二郎の遺作、という表現は間違い。小津はこの作品の後、テレビ・ドラマ「青春放課後」の脚本を書き上げており、さらに「大根と人参」の脚本を執筆中だったので、これが遺作)では道路を横切って電車が通過します(図1 53:16)。一見すると他愛ないショットのようですが、実はとっても面白い。ここは走り去る電車を主役にしているのです。

     

    面白い風景 1
     図1

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     


    線路の奥に見えるアパートは、おそらく長男夫婦の平山幸一(佐田啓二)と秋子(岡田茉莉子)の棲家。そしてヒロインである幸一の妹、路子(岩下志麻)の乗って来た電車が今その前を通過して、彼女は手前か次の駅で降りて長男夫婦のアパートへ向っているはずです。何故なら、帰りには電車の通らない同じ踏切り(1:00:39)が映った後、路子がその後を追うことにより、さきに兄夫婦のアパートを出ようとした三浦(吉田輝雄)と二人で、駅のホームに立っているからです(図2 1:00:45)。駅の名前は石川台、東急池上線の中間付近です。説明が少ないので推理小説並のドキドキ感が漂います。

     

    面白い風景 2
     図2

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     


      こまでを良く見直してみましょう。初めに電車が走ったときは画面の左奥から右手前に、ほとんど水平に陽が射しており、影の短いことから時刻は正午ごろ。池上線ならこの電車は北に向っている上り方面ということになります(図3− 々丸は駅、太い矢印は電車の走る方向、細い矢印は影の向きと長さを表し、方角は北が上)。したがって、これは路子と三浦が帰る時に乗る電車と同じ方向です。しかも北に進むのは石川台下り方面の隣駅、雪が谷大塚の先(ここから南に大きく曲がる)しかないので、二人が電車に乗る駅より一つ以上も離れていることになります。奥に映るアパートも長男夫婦の住む処とは違うようです。周りに他の建物はなく一棟だけ見えますが、その後、秋子がベランダで毛布を干す場面では、すぐ向こうに小津映画にはよくある他の住居の壁が見えているので、ここは日当りが悪いでしょう(53:53)。

     

    面白い風景 3
     図3

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     


    そして、このアパートに入る前のショットにあった、ベランダ側をほぼ正面から映す建物も外観を表しているはずですが、その構造や干されている物は初めのものと異ります。さらに離れて撮られているので、ここにも隣接した住居がないことが分ります(53:28)。つまり、これら三つのアパートは別物なのです。なおかつ、行きに電車が走る踏切りのショットと帰りの電車の走らないそれは、あちこちに写る影の形や、アパートのベランダにある洗濯物の干され方などが区別できないので、ほとんど同じ時刻のようです。


    しかし、そこは小津映画。見た目が似ているのなら、それ以上詮索してはいけません。電車も行きは線路を左から右、帰る時はホームに入って来た電車は逆方向の右から左です。おっと、右から左に動いたらサスペンス。ここは見落としてはならない。路子と三浦がこの電車に乗り込むのは、後に彼女が三浦に失恋することの前兆だったのです。


       れにしても何故、電車が通過した踏切りから遠く離れた石川台のホームを選んだのでしょうか。景色に問題があったのかも知れませんが、ここは陽射しに注目してみます。かりに踏切り近くの雪が谷大塚駅で撮ったとすると、正午頃の陽は電車の後方から射して、ホームでは人物に向って左側からになります(図3−◆法そしてこの場面では人物を左右から撮るので、右からの時に逆光となってしまいます。


    実際の石川台駅の上り電車は、西から東に走って陽は南側、線路に向って少し右寄りですが、ほぼ正面から射しています(図3−)。このため人物にも正面から陽が当るので、左右どちらから撮っても綺麗に映ります。入って来た電車は逆光になりますが、この時はホームの外、斜め前方からかなり引いて撮ることにより、それを防いでいます。しかし駅全体が日陰になってしまうので綺麗な映像ではないのですが、これもサスペンスを現しているのかも知れません。初めてこのショットを観た時、遠く離れて日陰となった光景は事件の前触れのように感じました。

     

    なお洗足池はさらに東西に向きますが、ここを選ばなかったのは景色の問題か、あるいは近い石川台でも日の具合は間にあったからでしょうか。「早春」の蒲田駅の場合は陽の射す側から撮るので綺麗ですが、電車か入って来ると人物がその陰に隠れてしまい(08:02)、これは何とも間抜けな映像に思えます。ホーム一つ撮るのも中々難しい。

     


    「麦秋」の風景

       は「麦秋」はどうか。北鎌倉駅のホームで紀子(原節子)が動き廻る割りには彼女や矢部(二本柳寛)、そして電車も綺麗に撮れていました。それもそのはずで、この場面は影の向きが二種類あるのです。ショットは全部で四つあって、二つずつ右から陽が射すショット一、三と後方からのショット二、四(図4 ショットは二が図5、三が図6)。

     

     
    面白い風景 4
     図4
    面白い風景 5 面白い風景 6
     図5  図6

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    ショット一はホームに対してやや後方、ショット二(図5)はふたりの影が線路に向ってほとんど垂直に伸びています。ショット三(図6)と四ではその足元は映りませんが、三はふたりの身体全体への陽の当り具合と肩に落ちる頭部の影で、それはホームに対して平行もしくはやや前方と分ります。四の方は紀子が先に電車に近づいて、矢部の影が彼女の背中に掛かるので線路に向って右前方。どちらもショット一、二の少し後のようです。


       鎌倉駅付近の上り電車は北西に走ります。このため上り方面では線路に向って人は北東を向きます。ショット一、三は短い影が東の方から落ちるので正午前、ショット二、四は長い影が西から伸びるので夕刻前です。この後、山中を電車がほぼ水平に走るショットでは、それが北鎌倉駅を出た直後だとすると、画面奥は人が線路に向かうのと同じ北東になり(09:24)、陽が正面に当っているので午後の時間帯でしょう。

     

    しかし見た目は電車が右から左に走り、ホームに入って来る電車も右からだったので、どちらもサスペンス方向です。左からの電車を撮るには「早春」のように反対側からやるしかありません。それでは人物も「早春」と同じように電車の陰に隠れてしまい、だいいち日の射す向きが逆です。ここは「秋刀魚の味」の場合とは違い、綺麗さを優先してホームを撮り、それに合わせて走り去る電車も同じ方向にしたのでしょう。次に「麦秋」ホームでの四ショットの影の長さと向き、その時刻を示します。

     

     

       
    1. 紀子が一人でホームに立っている(08:40)。影は短く、線路に向って右奥から左手前(東南東:正午前)

    2. 紀子が矢部を見つけて歩み寄る(08:50)。影は長く、線路に向って真後ろから前(南西:夕刻前)

    3. 紀子と矢部がホーム後方に並んで立つ(09:02)。1の少し後

    4. ホームに入ってきた電車に乗り込む(09:18)。2の少し後

       

     

     

       ョット二で矢部に歩み寄った紀子が彼に挨拶をする時、彼女のちょうど正面に柱の影が掛かり顔の真ん中を黒く汚してしまうので、ここは演出の失敗といえます。それとも、まともに当てると陽が強過ぎたのでしょうか。ショット二(図5)から三(図6)に移ると、背後にあった柱が消えるので場所を変えていることが分ります。これは構図の問題だと思われますが、二人の会話には柱が邪魔だったのかも知れません。

     

    ところが、ここで画面左奥に帽子を被り、鞄を前に下げた男が忽然と現れ、続くショット四では再び柱が映って、男は二人と同じ車両に乗り込んでゆきます。真面目に観るとミステリーですが、これは以下の理由によると思われます。前のショット二の図5では省略してありますが、実際には左手前にも女が立っていて、そこで現れた男の矢部を強く示しています。続くこのショット三では紀子がアップになるので、その左に男を立たせたのでしょう。最後のショット四では左からもう一人女が現れて、女男女男と並ぶことにより間の矢部と紀子を両脇で支えます。「◆構図至上主義(1)−「晩春」の通勤電車」最後の図4も、実際には左奥にもう一人サラリーマンが座っており、全体は「」と交互に並んでいました。

     

    紀子はショット一で、彼女が薦めたらしい本を読んでいる矢部を見つけて自分の方から近づき、ショット四では電車が来ると先に動き出します。どうやら彼女は夫を掌に乗せてしまいそうな気性のようです。

     

    【参考文献】

     

     (本文ここまで)