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    ◆小津と漱石(7)−小津と漱石とドストエフスキー

    • 2018.02.14 Wednesday
    • 18:55

     

    JUGEMテーマ:日本映画の監督

     

     

    小津と漱石とドストエフスキー 【参考文献】



       石は人間のエゴイズムを表したと言われますが、その影響として作品には矛盾の字が多く現われます。最多は「明暗」の二十一。作品が長いことにもよりますが題名がそれを象徴しています。次の「坑夫」が十五。これは独白のかたちで全編にわたって考察しています。三位がこれも題名から予想される「こころ」の十三。いたいけな「三四郎」でさえ十もあります。この作品から彼の心理探求が始まりますが、やはり矛盾の字が多くなることが、それを示しています。
       現在では当り前のように扱われていると思われますが、漱石は予想していた事態が起らなかったことに対して、起きなくて良かった、起って欲しかったと相反する感情が同時に起きる様子を描いています(明暗 百六十二、百七十九)。これなどは彼が表した矛盾の白眉といえるでしょう。漱石は矛盾を描いた作家でした。
       なお芥川龍之介の作品にも、他の作家のものと比べると矛盾の字は多く、内容も「鼻」「羅生門」などがこれをよく表しています。芥川は漱石の門下生にもまして、自身が本当の弟子だと述べたそうですが、作品の中で矛盾を表しているのも一因でしょうか。しかしそれらは短編のためもあり、矛盾への考察はなく提示するだけに終っています。
       津映画には登場人物の矛盾した考えがよく出て来ます。これは勧善懲悪、絶対悪を否定します。「彼岸花」ではそれが元で夫婦喧嘩が起き、夫の平山渉(佐分利信)は「矛盾の総和が人生だって言った学者(誰だろう)だってある」と開き直ります。「早春」うどんの会で、不倫の仲にある杉山正二(池部良)と金子千代(岸恵子)を非難した仲間が二人を羨みもします。
       映画監督の新藤兼人は「漱石が小津に与えた影響は非常に大きい」として以下のように述べています(大意)。「漱石は日本で初めて自我の発見をした。人は他人を裏切り続けていくなかで、そのような自分とは何者かと問い、贖罪的な気持を持つことによってモラルを確立する。小津はこの贖罪の気持を個人の中に終らせるのではなく、人と人との間に浸透させる方向に向っていった」(Э憩7鷽傭漫砲海里海箸蓮⊂津映画にある普遍性につながるでしょう(後に書く「◆普遍性(2)−懐かしい風景」参照)。
       津と漱石の共通点として、特に勧善懲悪がない、個人主義の二つが挙げられます。小津「戸田家の兄妹」、漱石「虞美人草」のような例外的なものもありますが、勧善懲悪がないということは漱石の作品にある「同じ人が善人にもなれば悪人にもなる」(こころ 先生と私 二十八)につながり、彼はこれを矛盾としています。
       善悪でなくても、時と場合によって言動が変ることも矛盾と呼んでいます。さらに漱石は貧富の差、場違いな言動なども矛盾といいますが、彼が説いた個人主義を離れていくので数は殆どありません。それは小説ではなく紀行文「満韓ところどころ」でみることができます。
       れらの多くは小津にも当てはまります(「A1 矛盾と神様」「B31 矛盾−善悪共存」「B43 矛盾−非難と羨望」「B53 矛盾−評価る人の都合」参照)。この個人のなかの矛盾は、人物の内面がテーマとなることによって「個人主義」につながります。そこで「個人主義」の反対を「全体主義」として次のように表してみます(「=」は等しい、ではなく類似の意)。

       勧善懲悪=全体主義
       善悪共存=個人主義
       小津=漱石

       学者の岡潔は「女性が本当に描けている文学者」として日本は漱石、外国ではドストエフスキーを挙げています。それは漱石の「則天去私」とドストエフスキーの「謙虚さ」によるとのこと(㊱女性を描いた文学者)。これをもっと広い意味に置き換えて、小津と漱石、ドストエフスキーの類似性が「誠実」にあるとしてみます。勧善懲悪は人を裁くために神の視点に立つことになり、それは手前のことは棚に上げて行なう、つまり不誠実。三者にはこれがない。そして全体主義は従順、個人主義は強情となります。これらを前式に加えて以下のように解きます。

       勧善懲悪=全体主義=不誠実=従順
       善悪共存=個人主義=誠実=強情
       小津=漱石=ドストエフスキー

       際この三者は社会性がない、もっと重要なものを扱うべき等の非難を受けていました。しかしそれは端的に言って好みの問題です。いつの時代も社会悪に関心のある人はいくらでもいます。逆にそうでない人も。それぞれの好みに合わせて行なえばいいこと。
       ドストエフスキーは思想によって人間を完全に支配することは出来ないと、社会主義の実現を否定しました(人間には「分かっちゃいるけど、止められない」という性癖があるため)。彼の著作は二十世紀の予言書と呼ばれましたが、これが最大の予言になったと思われます。そして、これは「◆普遍性(3)−面白い台詞」にある落語の「業の肯定」に当ります。
    「明暗」三十五には、主人公津田の悪友小林によるドストエフスキー評があります。小林は漱石の他の作品に出て来る「三四郎」の佐々木、「それから」の寺尾などと比べて同じ友人でも悪の要素が強く、悪魔的とさえ言えます。それは、ドストエフスキー作品の「虐げられた人々」ワルコフスキー、「罪と罰」スヴィドリガイロフ、「白痴」ロゴージン、「カラマーゾフの兄弟」スメルジャコフ等を思わせます。小林にこの作家の批評をさせているように、これもドストエフスキーの影響でしょうか。
       小林はドストエフスキーの小説について「いかに人間が下賤だろうとも、またいかに無教育だろうとも、時としてその人の口から、涙がこぼれるほどありがたい、そうして少しも取り繕わない、至純至精の感情が、泉のように流れ出して来る」と言っていますが、自分の演じているのは悪魔です。漱石はここでも「矛盾」を表しているのかも知れません。
       た当然のこととして、「善悪共存=個人主義=誠実」の条件だけで三者に絞られることはありませんが、特にドストエフスキーは他の二人にあまり似ているとも思えません。それは扱う思想の範囲が広いことも一因しているからでしょう。そこで小沼文彦訳「ドストエフスキーの言葉」から抜粋して彼らに比較的近いものを挙げてみます。ここにも矛盾の三要素(善悪共存、非難と羨望、評価る人の都合)が含まれています。

    1 [スチェパンチコヴォ村とその住人−心について]どんなに堕落した人間の心の中にも、きわめて高尚な人間的な感情が残されていないものでもない。人間の心の深部は究めつくせないものである。だから頭から堕落した人間を軽蔑してはいけない。いや、むしろ反対に、その美点を探し出して構成させてやらなければならない。一般的に認められている善悪とか、道徳の標準などは当てにならないものである(B31 矛盾−善悪共存)。

    2 [虐げられた人々−心について]人間の寛大な心が大きければ大きいだけ、声高く叫ばれれば叫ばれるだけ、そこに含まれる最も嫌悪すべきエゴイズムも増大するものである(B31 矛盾−善悪共存、B52 寸志を拒否)。

    3 [おじさんの夢−心について]すべての人がこの上なく悪意にみちた、残忍な喜びをいだいてその噂に耳を傾けた。誰か身近な人間の身の上に起こった、あらゆる種類の異常なスキャンダルに対して、われわれは普通、誰でもこうした態度を示すものなのである(B31 矛盾−善悪共存、B19 矛盾−非難と羨望)。

    4 [悪霊−心について]人間てやつはどんなときでも他人にだまされるよりは、自分で自分に嘘をつく場合のほうが多いものなんだ。そして、もちろん、他人の嘘よりも自分の作り話のほうを、余計に信じるものと相場が決まっている(B53 矛盾−評価する人の都合)。

    5 [白痴−心について]人間は、こわいと思う人のことは軽蔑しないものである(B53 矛盾−評価する人の都合)。

     

    *次に示す漱石「坑夫 3/100」とでは主旨が反対ですが、こちらは少し前の方から読んでいくと「白痴」の文が正常で、逆もあるがそれも「矛盾にゃならない」と言っています。

     

    「世の中には軽蔑しながらも こわ いものが 沢山 いくら もある。矛盾にゃならない」

    6 [カラマーゾフの兄弟−心について]人間の残虐な行為をよく「野獣のような」というけれど、これは野獣にとっては恐ろしく不公平で、しかも失礼な言いぐさだよ。野獣は決して人間のように残虐にはなりえない。あんな芸術的な、技巧的な残虐なまねなんかとてもできるもんじゃありゃしない(B31 矛盾−善悪共存)。

     

    *この説によれば「人間らしさ」と言われるのは、本当は「動物らしさ」ということになります。人間の残忍な行為は言葉によるところが大きいと思われますが、言葉とは多様ではあっても了解済みの概念一つ一つにラベルを張る行為であり、それらを寄せ集めて作られた新たな概念にラベルを張ることにより、言葉から言葉へと階層化されていきます。しかしそれらが、どんなに複雑、多様な成り方をしていても、一つの言葉を使う時はその表層を捉えるだけなので、その性質は動物が鳴きながら行うことと変わりないと言えます。

    7 [悪霊−社会について]人のお情けというやつには人間を堕落させるような要素が含まれているものである(B52 寸志を拒否)。

    8 [悪霊−信仰と創造]最高の芸術的天才の持主でも、同時にまた最も恐るべき卑劣漢でありうる、この二つは決して互いに矛盾するものではない(B31 矛盾−善悪共存)。

     

    【参考文献】

     

     (本文ここまで)




     

     

     

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