◆小津の演出(3)−親の悲しみ

  • 2018.03.28 Wednesday
  • 05:06

 

JUGEMテーマ:日本映画の監督

 

 

親の悲しみ 【参考文献】


 

 HKドキュメンタリー「小津安二郎・没後50年 隠された視線」によると、「秋刀魚の味」の終り近くにある、嫁いだ娘が残していった姿見を映すショットの後は(1:51:38)、脚本完成後に追加されていたとのこと。小津の全集も、ドキュメンタリーで映されている台本の活字部分と同じく、「98二階の部屋―ここも暗く、その位中に姿見の鈍い光が浮んでいる」で終っています。

 

この場面は「晩春」を観た里見からのラストについての提案「娘を結婚さした晩、父親が淋しくひとりで帰って来る。留守番の人を玄関からでなく、台所から送り帰す。座敷へ入ろうとして、娘のいた二階をつと見上げる。こんな事にしたら……」に対して、小津が「こんな批評はその作品で間に合わなくても、次の作から何かと役に立つ」とそれを取り入れたものですが(⊂津安二郎芸談)、さらに姿見のある二階の部屋のショットが追加されています。これは階下からは見えないわけですが、さっきまでそこにいた娘に対する父周平(笠智衆)の想いを強調したものでしょう。「晩春」にも嫁入り前ですが、似たような姿見の映るショットがあります(1:41:13)。

 

 れでは何故、ここで物語を終らせなかったのか。小津映画で娘を嫁がせた親の悲しみを表す作品は「秋刀魚の味」のほかに、「晩春」「麦秋」「彼岸花」「秋日和」の四本があります。その他の親の悲しみを表すものには「母を恋はずや」(結末のフィルムが残っていないので脚本で確認)、「一人息子」「東京暮色」の三本あり、これらは全て悲しむ親の姿で終っています。そして「秋刀魚の味」も姿見の後から周平が映されてラストにつながります。したがって、これは親の悲しみを表す場面のバリエーションであり、小津は里見案を尊重して脚本を書き上げたものの、従来の形式にこだわってラストを追加したのです。

 

しかし、それらの演出はあまり成功しているとは思えません。「麦秋」「彼岸花」「秋日和」くらいが観られるところでしょうか。他の作品では普通の演出の逆をいっています。娘を嫁がせた親の悲しみは激しく、娘を亡くした親のそれは穏やかに。どうやら、これは小津の演技指導の基本だったようで、自身も次のように述べています。

 

 

「ここのところは大変受けるところだと、いい気持でやられるとナニワ節になっちゃうんです。だから、ここはどうやっても受けるんだから、なんでもなくやってくれ、なんでもないところを、強くやってくれ、ということになるんですね」(,筌,海鵑砲舛蓮

 

 

「晩春」で父親役の笠智衆は、監督から悲しみを表すため慟哭するよう指示されたのですが、さすがにおかしいと思い拒否しています(β萋鷯蓮〆酩覆論篁拭演技は酷評)。それにしても「秋刀魚の味」もこの作品も、父親が本当に悲しんでいるように見えます。娘を嫁にやることをそんなに悲しんで良いものなのでしょうか。かりに誰もいなくなったところで本音が出るということであっても、それを見せる必要はないのではないか。それが小津の主張した、よけいな説明をはぶいて余韻を残すことになるはずです。

 

田中眞澄は「晩春」における父親の悲しみの表現は、小津が傾倒していた佐藤春夫の代表作「秋刀魚の歌」の影響だと言います(⊂津安二郎・筈見恒夫対談 注18)。そうであっても、嫁いだ娘に対する父の思いと、女に逃げられた男の悲しみとでは、天と地ほどの差があるでしょう。「一人息子」の母親は最後に力なくうな垂れてしまい、出世できない息子に絶望した様子。放蕩息子でもあるまいし、これでは母親の方に問題がありそうです。

 

 津のいう「悲しい時に笑う人もいるし、嬉しさを現わすために泣かす場合もある」(大人の映画を)は泣き笑いや、嬉し泣きのことと思われます。「東京暮色」の父親は娘を亡くしてまで笑いはしないでしょうが、彼は泣くこともなく顔色もほとんど変えずに、少し嫌な思いをしたという表情です。これら二つの演出は入れ換えた方がずっと良かったでしょう。悲しいときに泣くのが拙いのではなく泣き方の問題です。特に「秋刀魚の味」は姿見の処で終っていたら、新しい形式として上手くいっていたのではないでしょうか。

 

この作品では以下の次男和夫(三上真一郎)の最後の台詞と、その間にある父の返事(1:50:14)も脚本には無く、三上によるとこれも撮影時に追加されたとのこと(┘薀肇凜アの『東京物語』)。これについて彼は、半年前に母を亡くした小津が一番欲しかったものではないかと指摘しています。

 

 

 「おれもう寝ちゃうぞ」

 「風邪引いたって知らねえから」

 「俺もう寝ちゃったぞ」

 「うん」

 「明日、また早えんだぞ」

 「俺が飯炊いてやるから」

 

 

 津映画で親の悲哀を表現しているのは、そのほとんどが片親の家庭です。例外は「麦秋」「彼岸花」だけでしょう。遺作となった「大根と人参」も、「彼岸花」に似た両親のあるコメディー性の高い作品のようなので、これが加わったかも知れませんが。それは片親の方が劇に成りやすく、悪い奴の出てくる映画を嫌った小津にとっては、精一杯の悲劇だったということになります。

 

【参考文献】

 

 (本文ここまで)




 

 

 

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