◆小津の演出(5)−ホーム・ドラマの元祖

  • 2018.04.01 Sunday
  • 08:46

 

JUGEMテーマ:日本映画の監督

 

 

ホーム・ドラマの元祖 【参考文献】

 

 

 

 津映画はホーム・ドラマの元祖と言われていますが、純粋にホーム・ドラマといえるのはサイレントにはあまりなく、「生れてはみたけれど」「東京の合唱」「母を恋はずや」、このくらいでしょうか。それ以外は学生ものなどの若者の集団を描くものが多く、その家庭を描いた場面は殆どあまりません。夫婦だけの作品なら「引越し夫婦」「大学は出たけれど」「会社員生活」その他と、数はあるのですが子供のいないものはホーム・ドラマとは言えないでしょう。また一連の喜八ものは人情話です。これらのことから、サイレントで短い家庭の場面を様々に描いていった小津は、結果的にトーキーになってからのホーム・ドラマの習作を行っていたことになります。小津のホーム・ドラマといえば戦後の「晩春」以降の作品が話題に上ることが多いのですが、ここの処を良くみてみましょう。

 

 に挙げるのは昭和十五年に中国戦線から帰還して「彼氏南京へ行く」の脚本を書き上げたときの小津の言葉です(題名は後に「お茶漬の味」と改められたが、検閲のため製作できなかった)。

 

 

「帰って来てから外国映画を随分見ましたが、米国映画からはもう殆ど摂取するものはないと思います。敢て学ぶ点といえば技術的な面でキャメラ技術なんかじゃないでしょうか……(米国映画のある作品について)伏線の張り方とか盛りあげ方とか実にそつがなくて巧い。まるで歯車が噛み合う様に正確そのものです。それだけにもう古いという感じが強い……(米国のスペクタル映画について)そうした種類のものに莫大もない金を使っているのをみると私が製作者であるせいか、馬鹿々々しいという気にもなります」(彼氏映画を語る◆

 

 

この時点で小津は自身の方向性をはっきり見定めていたといえるでしょう。事実、学生ものは最後のサイレント作品「大学よいとこ」で終わり、人情話である喜八ものも戦後第一作の「長屋紳士録」までです。米映画かぶれの作品はエルンスト・ルビッチの作風を真似た出征前の「淑女は何を忘れたか」が最後となりました。

 

 の発言と同じころ、小津は旧作「生れてはみたけれど」「一人息子」を例にあげ、これらの作品が持つ悲観的なテーマを否定し、自信を持ち、生き甲斐を感じることができる作品を目指すと宣言しています(さあ帰還第一作だ!◆法さらに次作である「戸田家の兄妹」の製作時には、「いつも仕事を上げると、当分は仕事が厭になるのだが、今度は仕事をやっていて調子がわかって来た時分に仕事が終ってしまったので、次の仕事に早くかかりたい。何か早く撮りたい。これは今までないことだね」(「戸田家の兄妹」検討◆砲判劼戮討い泙垢、これは作者としてかなり自信のある発言といえるでしょう。

 

 ーキーになってから終戦までに小津は、「一人息子」「淑女は何を忘れたか」「戸田家の兄妹」「父ありき」計四本の映画を撮っており、これらはすべてホーム・ドラマです。さらに最後の二作では母性愛と父性愛を描いたので次は兄弟愛を描きたい、とも言っています(たのしく面白い映画を作れ◆法これは時局とその後に来る敗戦の影響もあって実現できなかったのですが、ここまでの経緯から、トーキー第一作からおよそ七年間で製作された上記四本の作品によって、小津のホーム・ドラマの基盤が出来上がったとみていいでしょう。これは三十二歳から三十八歳までの、いわば彼が一番脂の乗っていた時代でした。つまり小津は、他の監督が戦争物や時代劇を盛んに作り上げていたその戦時下に、ホーム・ドラマの元祖になっていたのです。

 

【参考文献】

 

 (本文ここまで)




 

 

 

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