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    ◆隠された演出(1)−劇中劇

    • 2018.04.13 Friday
    • 09:16

     

    JUGEMテーマ:日本映画の監督

     

     

    劇中劇 【参考文献】

     

     

     

    能と歌舞伎

     

     本一郎によると「晩春」のストーリーは劇中の能「 杜若 かきつばた 」(52:02)を踏襲しており、紀子(原節子)は杜若の精であるとのこと(監鵝三貉綾蕾董法これにより、不思議に思っていたラストの海景(1:47:11)の謎は解けます。往年、物議を醸していた宿泊先にある空の白い壺(1:28:14, 1:28:31)は意味のないショットと決めつけていたのですが、これも山本案で解釈可能となります。

     

    それでは紀子が友人のアヤ(月丘夢路)宅の応接室で、彼女に手を引かれて奥の部屋に導かれた時に、「冷たい手してんのね、あんた」と言われたこと(1:01:20)に意味はあるのか。作中ではコンサートの日付が4月26日であり、薄着でサイクリングをしているのでだいぶ暖かい時節と思われますが、かりに寒い屋外から入って来たとしても、アヤがケーキを作り終るまで、しばらく待たされていたようなので体は充分温まっているはずです。紀子は笑ってやり過ごしますが、もし杜若の精だから冷たいというのでは恐ろしい。

     

    さらに山本は「彼岸花」もラジオからの歌舞伎「 京鹿子娘道成寺 きょうがのこむすめどうじょうじ 」(1:19:06)を踏襲していると指摘します。同じものが「お茶漬の味」では歌舞伎座の場面(48:30)で聴かれますが、こちらは物語と関係があるのでしょうか。「淑女は何を忘れたか」の歌舞伎「鞘当」(28:25)はどうか。その他にも山本は「秋刀魚の味」でオフィスの路子(岩下志麻)と並んで映される橋本明治の絵画「石橋」(18:44)により、歌舞伎の「 鏡獅子 かがみじし 」を表していると言います(廓惴紊量床茵法

     

     かしこれらの内、劇中劇があるのは「晩春」だけなので、この作品だけがストーリーに反映されており、その他は飾りであるようにも思われます。作者の方も毎回筋をなぞるのは面倒で、かなり退屈な作業になりそうです。それにしても、「秋刀魚の味」の路子がアイロン掛けのタオルを振り下ろす処(1:11:17)はとても恐い。やはり「鏡獅子」なのか。「彼岸花」で夫(佐分利信)に呼び止められて、振り向きざまに彼の上着を投げ落す妻清子(田中絹代)の立ち姿(1:22:50)もただ事ではないようです。

     

    「晩春」友人アヤ宅での東郷青児の夫人画(1:01:45)は、「お茶漬の味」でも妻妙子(木暮実千代)の部屋で使われて(1:16:38)、どちらも婦人の部屋にあります。小津作品の中で部屋内に飾られる絵の中では一番大きいだろうと思われますが、そのためこの作品では人物を横に立たせて、対比させるような構図となっています。「晩春」ではこの大きい肖像画はたびたび映されますが、それは肩から下だけで顔が映ることはありません。もしやこの顔の映らない夫人像も、「杜若」を表しているのでしょうか。そして「お茶漬の味」は「秋刀魚の味」のように横に並んでおり、これも歌舞伎座で聴かれた「京鹿子娘道成寺」なのか。

     

     

    台詞の中の映画

     

    「お早よう」の大久保しげ(高橋とよ)と、「秋日和」三輪秋子(原節子)には、「犯人は誰だってなものよ。ほら、この間駅前の映画館でやってたじゃないの」(13:40)、「いやあよ、谷へ落っこったりしちゃ。さっきの映画みたいに」(43:19)という台詞があります。これらは実際に上映されたものなのか観るたびに気になるので、同じ年のキネマ旬報ベストテンの中から探してみました。邦画には該当するものが無さそうでもあり、小津作品の劇中映画はすべて洋画なので、こちらから選出。

     

    それらしいのは'59年度第一位「十二人の怒れる男」と'60年度第六位「黒いオルフェ」。「十二人の怒れる男」は法廷ものですが、冤罪のため真犯人を突き止めるという展開なら同じ台詞も有り得ます。また少年が父親殺しの罪をきせられるという設定は、おばさんたちにも受け入れられそうです。「黒いオルフェ」は主人公とヒロインが崖から落ちて死んでしまう悲劇ですが、これも母娘で観たとしても可笑しくはないでしょう。

     

     

    台詞の中の芝居

     

    「浮草」では小津の芝居に対する考えが表されています。嵐駒十郎(中村鴈治郎)に本間清(川口浩)が「ちいとやり過ぎやなあ……芝居だい、あっこであんなに目むく必要あらへんやないか」(35:04)と言いますが、これは元の題名だった大根役者を表しています。さらに駒十郎が演じた丸橋忠弥に対して、清は社会性がない、古いなどと否定するのですが、小津自身はこれとは逆の立場でした。それは、彼の映画には社会性がない=個人主義、古いものに良さがあるということです。

     

    しかし清が客さえ喜べば良いのかと疑問を投げかけた処で、駒十郎は会話を中断してしまいます。社会性の有無、新しい古いは作品の良し悪しではなく好みの問題です。理屈だけなら芝居にする必要もないでしょう。「小早川家の秋」脱稿後の小津の日記には昭和36年 6月 3日「どんなに今日的な題材を捉へようが それに社会性があろうが その語り口が説明でハ 劇にハならない/いくら理論的に言葉の綾でせめても 所詮ハ勘定合つての銭足らずだ」とあります。

     

    【参考文献】

     

     (本文ここまで)




     

     

     

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