◆隠された演出(2)−記念撮影

  • 2018.04.15 Sunday
  • 09:20

 

JUGEMテーマ:日本映画の監督

 

 

記念撮影 【参考文献】

 

 

 

 津映画における、記念撮影は別れの象徴というような見方がありますが、果して本当なのでしょうか。それが物語の初めにある「戸田家の兄妹」「父ありき」では死につながり、「長屋紳士録」「麦秋」の終りは生き別れを表すといえるのか。初めの方は必然であり、それがなければ物足りなく感じられてしまうでしょう。「戸田家の兄妹」にある御大家での記念撮影や主の死は里見からの拝借であり、「安城家の兄弟」「四葉の苜蓿」と別々の小説ですが(「◆小津と漱石(1)−個人主義と矛盾A4何年生まれ」参照)、二つを合わせたのは劇としての効果を高めるためだったと思われます。「父ありき」の方は修学旅行といえば記念写真(05:19)。同じように鎌倉の大仏前で撮った体験があり、この場面を観るたびに懐かしく思い出されます。

 

もし死を暗示するのなら、その人物を強調するはずです。まともにやると臭くなりますが、全員を遠景で映すだけでは何度観直しても感じは出て来ません。それでも「戸田家の兄妹」は主が中心にいて簡単に見分けられますが、「父ありき」では一体この中のどの生徒がボートを漕いだのか特定できません。小津はサスペンス性を出すために振り子時計が右から振れ出すショットを多用しており、「戸田家の兄妹」でも主が倒れた晩に右から振れますが(「◆小津の文法(3)−サスペンス」参照)、これに加えて冒頭で死を暗示するようなくどい演出はないと思われます。

 

 れらの終りにある記念撮影はすべて一件落着の意です。映画の完成記念として撮る写真と同じ乗りといえます。「長屋紳士録」は育てるのを嫌ったかあやん(飯田蝶子)が、騙して海岸に置き去りにまでした子供と仲良くなってから、彼を動物園に連れて行きます。その結果、記念写真を撮るのだから、これが別れの象徴では劇として成り立たちません。かあやんに一緒にと誘われたきく女(吉川満子)は「三人で写すものではない」「写真が嫌い」などと断るのですが、これは二人を祝福するために遠慮しているとみるのが自然。彼女は、まだ子供がかあやんを恐れていて逃走してしまった時、もし帰って来たら彼を自分に奢るかとかあやんに訊ねてもいました(53:52)。それでも記念撮影の場面は別れを表すというのでしょうか。

 

シャッター音の後、映像が転倒するのが別れを表すのなら(1:00:43)、それは死別ではないのか。その後にある二十秒近い真っ暗な画面は長過ぎて戸惑いを感じますが、小津自身もこれを失敗と認めています。「暗い間に皆かえってしまって、次の場面になる。一つの省略の方法に使ってみたのですが、どうも結果は本当の省略になっておりません」(映画と文学)この二点は作品の持つ喜劇性によるものでしょう。ここは暗い中で撮影後の会話が続くのですが、これも過剰な説明を避けて台詞だけにしたものと思われます。

 

余談ですが、この会話は内容からみてすでに三人が写真館を出た後のことのようですが、次に誰もいなくなったスタジオがカーテン・ショットとして現われます。別れの予感はありませんが、時間が前後したような感じで、それは「麦秋」での観客が去った無人の歌舞伎座を思わせます(31:43)。こちらは場所を料亭に移した後の映像で時間的にずいぶん離れて、老夫婦たちの歌舞伎座と、紀子(原節子)がいる料亭との二つの空間の同時進行を表しており、さらにカメラ移動までして、かなり唐突でもあります。

 

 あやんは子供と別れた後、悲しくて泣いているのではないと明言しており、父親が現われて子供を引き取ったのだからハッピー・エンドです。後に子供がかあやんに会いに来ることも充分に考えられ、そうなれば微笑ましい光景となります。それを別れの物語とするのでは観る人の方が残酷です。干し柿を子供が食べたと疑われたのを、為吉(河村黎吉)が自分の仕業と白状する件では(41:59)、本当は盗っていない彼が罪を負ったという解釈もありますが、小津はそのような裏はないと否定しています。「こっちはそこまで考えていないのによく考えるものだという気がします」(映画と文学)

 

「麦秋」も紀子の結婚相手についての家族との確執や、子供達のパンを蹴飛ばして家出までする親への反抗の後、最後はみんなで記念撮影をします(1:55:51)。これが別れの前触れとみるのはやはり惨すぎます。写真を撮った晩に周吉(菅井一郎)は「別れ々々になるけれど、またいつか一緒になるさ」と言う(1:59:10)。写真が別れを表すのであれば、この台詞もくどいものとなります。それとも「またいつか一緒になるさ」を否定していると取るべきか。しかし「麦秋」がそんな悪意のある作品とは思えません。さらに父母だけで二枚目の写真を撮るのは、先に冥土に送られる証などと言われたりもしますが、これは二人に対する家族の思いやりの現われなのです。

 

「晩春」以後、娘が嫁にいく話は五本あり、そのうち結婚式の記念撮影があるのは「秋日和」だけですが(2:01:21)、この作だけ別れを強調したかったのか。結婚すれば親と娘が別れるのは必然ですが、この映画のような母と娘だけに意味があるのか。しかし象徴であれば映されている者同士の別れとみるべきでしょう。もしそうなら新婚夫婦の別れを表すことになりますが、物語は明らかに親子の別れを扱っています。

 

小津は同じ恋愛ものの中では、この作品での佐田啓二、司葉子の組合せが特にお気に入りだったようです。「佐田啓二君と司君のコンビをみてごらんなさいよ、……この二人のたたずまいもまた捨てがたいところがありはしませんか。というよりこのカップルにこそ僕はもっとも親しみやすくて美しいものを感じますね」(△犬辰り腰すえる小津監督)これは「秋日和」製作時の小津の言葉ですが、二人を記念写真に収めた理由はここにあるのです。

 

 が集まれば別れにつながるのは自明のこと。それを記念撮影で暗示させるなどというのでは話がずれてしまいます。登場人物は何時かは必ずこの世から姿を消すことになりますが、そう考えると映画はすべて悲劇です。それは演じる役者自身にも言えます。「戸田家の兄妹」「父ありき」「長屋紳士録」「麦秋」等々に出ている人達で、今は亡くなった人も大勢いますが、そんなことを意識して観たりはしない。でなければ映画はみんな悲しいドキュメンタリーになってしまうでしょう。

 

【参考文献】

 

 (本文ここまで)




 

 

 

スポンサーサイト

  • 2019.07.19 Friday
  • 09:20
  • 0
    • -
    • -
    • -
    コメント
    コメントする








        
    この記事のトラックバックURL
    トラックバック

    PR

    calendar

    S M T W T F S
        123
    45678910
    11121314151617
    18192021222324
    25262728293031
    << August 2019 >>

    アクセス・カウンター

    www.rays-counter.com

    selected entries

    categories

    archives

    links

    profile

    search this site.

    others

    mobile

    qrcode

    powered

    無料ブログ作成サービス JUGEM